2010年8月17日火曜日

1969年、透析導入(2)

気づいたらまた、病院のベッドで天井の石膏ボードの穴の数を数えていた。あるっきり、意識が無い訳ではなく、医師がのしかかって「のりちゃーん!分かる?これからお腹に穴を空けるからハイ!っていったらお腹に思い切り力を入れてね。ハイ!」バスっという感じで腹に穴が開く感じがした。「まるきり意識が無いわけじゃないんだな。」俺は全部聞こえていた。

1965年の入院から4年後の1969年9月。
またまた、2学期が始まって最初の週。登校途中、僕はどうしても学校へ行きたくなかった。さしたる理由が無い。億劫。だるい。そんな感じ。でも、だるいから行きたくない。そういう理由では親に許可をもらえない。通学路途中のバス停で僕は考えあぐねていた。そこで思いついたのが、のどの奥まで指を突っ込んで「おえ~」として気持ち悪くしてつばを吐き、家に戻って「バス停で気持ちが悪くなって戻した。」と言って学校を休む。
この作戦は成功し僕は休みの許可をもらえた。しかし、予想通りではなかった。僕は其れきり起き上がれなくなってしまった。体に力が入らない。動くのがやっとの状態だった。ところが尿量だけはでる。トイレにおいてある尿量計測のための一升瓶を2回は空にした。其れも清酒のようにきれいな尿だった。2週間ほどそうやって寝ていただろうか。食べ物もほとんど食べていない。そのうちに異様な感覚が現れた。夜、居間から離れた6畳間に寝ていて居間の家族たちの様子をぼんやりと眺めているとストップモーションのように止まって見える。家の者が座ったり立ったりしたまま止まって見えるのだ。ふっと気が付くとまた動き出したりまた、止まって見えたり。ぼくはなんとなく面白くなりそんな家族の様子をぼんやりと眺めていた。
すると、止まっていた母がこちらに気づいた。顔が少しずつ近づいてくる。「のりちゃん!なにしてんの?黒目を戻しなさい!ふざけてやってるの!?」どうやら僕は白目をむいているようだった。母の声はしっかり聞こえていた。僕は意識して目の玉を正常に戻そうとした。「そうよ、それでいいのよ。そうしていなさい。」そういって、母はまたコマ送りのような感じで去っていって電話を掛けだした。主治医に異常を知らせているようだ。
するとこちらの様子を注視しながら電話をかけていた母が受話器を投げ出しこちらに駆け寄ってきた。
今度は無言で僕の頬をはたく。「目を!目を戻しなさい!」母が大声を出す。口に握りこぶしを突っ込んでくる。舌をつかむ。そうして割り箸に布を巻いたものを僕の口に突っ込んだ。その辺で意識が無くなった。
意識は戻ったりなくしたりを繰り返していた。国立病院の部屋と同じような天井の石膏ボードが見えた。頭の中で僕は入院したのかな、と言うのは感じていた。在宅療養中に読んだ本で知った尿毒症という文字が浮かんだ。僕は尿毒症を起こしたのかな。救急搬送でこの病院へ行き、1969年9月27日に腹膜透析で命を救われたのは幸運だった。
この時代、腎不全で尿毒症を起してなお救われる、と言う機会は皆無に等しかった。うちの親父がここで人工透析をやっている医者がいるのを知っていたとか、救急隊員が機転を効かしてこの病院へ連れて行ったわけでもない。しかし、偶然にこの病院へ行ったわけではない。母の手元にはこの病院への紹介状があった。それは、僕が寝込んでいたときに往診に来てくれた医師からのものだった。あて先は内科でも小児科でもなく、精神科への紹介状だった。僕が床についてから何回か往診してくれた医師には腎不全、尿毒症を見分けるすべもなかった。
医師は「これはね、お母さんにいつもそばにいてほしいと体が訴えているんだよ。全学連のストライキみたいなもんさ。精神科の紹介状を書いてあげるから近いうちに行くといい。」といって母に手渡してあったものだ。そして、救急車の隊員に「紹介状を持っているのでこの病院の精神科へお願いします。」と告げたそうだ。こうして僕は当時、助からないはずの数万分の一、数十万分の一の腹膜透析で助かったのだった。

つづく。

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