2010年8月30日月曜日

2010年8月25日水曜日

病歴

現在のクリニックへ通院するようになってからの主な既往症歴を
書き出してもらいました。

’65 9/6小児腎炎から慢性糸球体腎炎発症 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34545334.html


’69 9/27尿毒症により腹膜透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34549186.html

’70 4/6血液透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34559005.html

横須賀にて通院。
1969年9月~1999年11月



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

現クリニック’99 11月23日初診~



’762腎移植(父ドナー、OP当日尿量0 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/28866912.html

’80 尋常性乾癬

’94 7左大腿骨骨とう壊死

7/27人工骨とう置換術

’95 2意識消失発作(脳波、CT;np)

’99 3僧帽弁閉鎖不全

’99 6蜂窩織炎

’01 1/30左変形性膝関節症 全置換術

    9/18右〃  〃     〃

’02 9消化管出血

’04 6敗血症ショック

’04 8右大腿動脈穿刺部感染性動脈瘤破裂

     8/20右大腿動脈瘤切除

       動脈端々吻合再建術

’0410左手関節内シャント造設

 々  10/22尋常性乾癬症悪化UVB照射

’06 1左大腿骨骨頭部(人工骨頭部)

      1/27他 計3箇所の骨折ope

       入院中仙骨部褥創形成

’06 6左手関節内シャント造設

’0610左上腕グラフト造設

’10 3左上腕グラフト(PTA 血栓除去)

 〃  8 〃  〃  延長

介護担当者会議。

要介護認定を受けると介護度に応じた介護サービスを受けることができます。




通院送迎タクシー、身体介護、家事援助、訪問リハビリー、訪問看護、介護用品のレンタル、



など、さまざまなサービスがあります。



利用者の障害に応じてケアマネージャーが介護利用計画をたて点数を算定します。



サービスが多岐にわたるとそれぞれの担当者を集めて現在の状況やこれからの介護方針などを



提案、連絡するため担当者会議なるものを開きます。



もちろん、ケアマネさんが司会です。



「のりさんの現在の状況はいかがですか?皆さん、ご意見は有りますか?」



から始まって、さまざまな意見が飛び交います。



訪問看護師

「入院する前から比べると足の運びが重くなったような気がします。貧血のせいもあるでしょうけど」



から、議論が白熱してきます。



その間、僕は借りてきた猫状態。



「どうですか?のりさん。」   「はあ・・・・」



送迎タクシーさん。

「今日は玄関の段差を下りるのもつらそうでした。病院の中もついてあげたいのですが、






許可されていません。何か方法はありませんか?」



家事ヘルパーさん。

「貧血だと言うのでコンビニ弁当ではなくて何か栄養のあるものを作ってあげたいんですが?」



「どうなんですか?」     「はあ・・・・・・」



ますます議論は盛り上がってきます。



ケアマネさん。

「のりさんの目標は、お一人で外出したいと言う事ですよね。訪問リハさん如何ですか?」



訪問リハさん。

「階段は下りるのは結構出来ますが登るのはまだまだ掛かると思います。」



電動車いすを使う、ベランダを改造して昇降機を取り付ける、とか、



ベッドを電動にしたらどうか、とか、益々議論は伯仲し、電動車いすの昇降に向けて、



行動を開始することに。



ケアマネさん。

「のりさんの最終目標はハワイ旅行ですよね?時期はいつですか?」



・・・・え?え~~?今週のオフ会も中止したのにハワイですか?・・・・・・



「い、いや~~、来春くらいかな?・・・」



ケアマネさん。

「来春のハワイに向けて頑張るそうです。」

看護師「・・・・・・・」ヘルパーさん「・・・・・・」タクシーさん「・・・・・・・」



「い、いや~~~、国内からでいいよ。宍道湖の夕陽とか。」



ケアマネさん。

「夕陽?秋ですね。11月?ハワイは春ですね。宍道湖11月、ハワイは来春だそうです。」



・・・・・・・・おい、おい、ホントかよ~~~。・・・・・・・・



ケアマネさん。

「それではベランダの改修を大家さんと交渉して頂いて国内が11月、ハワイが春でよろしくお願いします。」



ケアマネージャーさん、どうやら、マジらしいです。

2010年8月23日月曜日

22日の出来事。

本当に恥ずかしい事なんですが、昨日、救急車を呼んでしまいました。
自分では本当に苦しかったんですよ。
でもこんな事で救急車、呼んでもいいのかな?と逡巡しました。

透析があると、なかなか下剤って飲みにくいんですよね。次の日透析が有ると飲むのは控えるし、毎日決まった時間に出ればよいのだけど食が細いので2-3日に1回、出ればよいほうでおのずと硬くなります。それで、4-5日ほどでていなかったんです。土曜日に明日は日曜だから下剤を飲んででも出しとかなきゃ!と思って下剤を飲んで寝ました。

普通なら、朝には快便が~!ところが今日に限ってでない?
昼を過ぎて下剤特有のおなかの痛みがやってきたがでない?
それどころか、ものはもう下まで下がりきって今にも出そうなところにあるんだが出ない。。。。
腹は痛い、出口も痛い、脂汗は出る、力むとくらくらする。なんせHb7.5!Ht23!!!
ふらふらしながら、何度かトイレを行き来していたが、とうとう限界に。

おしりにペーパーをつめてやっとこベッドに戻り横になる。息ははあはあ、油汗は出てくる。
明日は透析だからそれまで我慢すれば、何か対処してくれるだろう。。。。
と思っていたが、我慢できなくなってしまった。こんなことで・・・思ったのだが救急車に連絡をした。
3分ほどで到着した。退院4人。てきぱきと隊長らしき人が指示を与える。
保険証は?おうちの鍵は?お財布は持ちますか?携帯ももっていますか?ご家族に連絡は?
1分も掛からず準備完了!ハンモック状の物に載せられ救急車へ。1件目、病院搬入要請、重傷者処置中のためNG!2件目、3件目NG!4件目もNG!5件目、戸塚の病院が受け入れ。
出発する事になった。バイタルもすべて異常なし。腹痛のみ、原因も分っている。俺は恥ずかしかったが隊員は優しかった。「妹さんに連絡取れましたからね。もうすぐ着きますよ。」

戸塚共立第一病院に搬入された。症状も原因も既往歴もすべて隊員が医師に報告してくれた。
医師も穏やかに対応してくれて、看護師もとても丁寧だった。俺はもしかしたら皮肉の一言も言われるんじゃないかと思ってて言われても詫びよう、位に思っていたのだがホントに優しい対応だった。レントゲンで確認して浣腸をかけて俺は昇天した。看護師が医師に「たくさん出ましたよ。」医師は静かに「よかったですね。」本当にお手を煩わせて申し訳ない。

会計を済ませて妹を待つ。仕事を切り上げて妹がやってくる。
事務室に「妹が来ましたんで、帰ります。ありがとうございました。」と、声をかけると、事務室にいた全員が玄関まで出てきてくれて送ってくれた。まるで長年入院していた患者の退院みたいに。
本当にアットホームな対応だった。この病院一度入院してみたくなったほどだった。
上大岡救急の隊員の方も本当にありがとうございました。

2010年8月19日木曜日

外シャント。

小児科と内科。


12歳だった僕は小児科に入院した。透析に関しての指示や治療は小児科を通して伝えられる。当時、透析治療と言うのは同時病院内であっても理解度は少なかった。病院食にしてもとても透析食にはふさわしくないものが平然としてあった。たぶん、腎不全保存期、低蛋白で無塩に近いもの。カリウムは豊富に取らされた。バナナ、りんご、牛乳は毎日付いてきた。透析医と透析室の看護婦などはこの矛盾に気が付いていたようだが、栄養には口を出せなかったようだ。2年目くらいに透析室担当の栄養士が着て食事内容は激変し栄養指導なども盛んに行われるようになり、食事指導も厳しいものになっていった。



しかし、主治医はあくまで小児科医であって透析は併診扱いだった。これが僕らに災いした。小児の透析患者は僕しかいなくて小児科の栄養指導は遅れていて相変わらず腎不全食が出されていた。透析室にも小児科からおやつといってりんごなどを持ってくる。ほかの患者の前でりんごを食べる。不自然な状態が続いた。



そんなある日、事故が起きる。静脈側の縫合部が感染し抜けやすくなっていたらしく自宅で就寝中に外シャントが抜けるという事故が起きた。朝、気が付くとパジャマも布団も血まみれ!シャントを包んだ包帯からは未だに血が垂れている。僕はびっくりして母を呼んだ。これを見た母も動転した。小児科の担当医に電話をするか、透析医に電話するか、悩んだが、とにかく、救急車!ということで救急車で病院へ搬送してもらう。その間も血が流れ続ける。隊員も動転するが腕の付け根を圧迫するか一向に出血は止まらない。ようやく、病院に到着し待ち構えていた当直医が出血部分の包帯を解き確認すると、静脈側のカテーテルが抜けているだけ。カンシでパッチン!で血は止まった。しかし、ナンリットル血が出たかわからない。僕はまたまた気を失った。



この事件で小児科と、透析医との話し合いが行われ、このような事故の際、速やかに透析医側の指示を伝わるように当時、中学生ではあったが透析患者として内科担当医が主治医となった。



この外シャントの時代は長くは無かったが2-3年だった思うがすぐ詰まってしまって、毎月のように作り直した。手術の看護師が顔なじみになって「あら、また来たの?」なんていわれるようになった。それは、昭和51年のボーバイン・グラフトを入れるまで続いた。両手、両足、血管をことごとく潰していった。
外シャントOPの傷跡。

つづく。

1970年4月6日(2)

初めての透析

透析室はベッドが4台。広さは8畳分か10畳分、ベッド4台でいっぱいいっぱいな感じ。ベッドを壁際に口の字の様に配置して真ん中にキール型ダイアライザーが2台置いてある。この2台のダイアライザーと1台の監視装置を4人の透析患者が共用する。監視装置(コンソール)は大きな木製キャビネットで数々のメーターがついている。静脈圧計、透析圧計、流量計。そこから供給される透析液は2系統。患者は4人。透析器は2台。1系統の透析液ラインに2台の透析器が繋がれた。そして1台の透析器には2人の患者の血液が送り込まれる。監視装置から出た透析液が最初に通る透析器を上流、次に通る透析器を下流といった。積層型の透析器の上の層を上層、下を下層と呼んだ。透析時間は朝10時から夜8時まで10時間。通ってくる方は県内各地に及んでいて1時間、2時間、かかってくる方もざらにいた。まさに残業つきの大仕事。中には家族が車椅子で送ってきて一度帰ってまた迎えに来るという方もいてまさに家族の協力がなければ透析は向け続けることが出来ない治療だった。






シャントは当時、全員が外シャントでうでの静脈と動脈にカニューレが挿入され真ん中でコネクターで接続されてシャントが出来ていた。透析するときはそこをはずしてダイアライザーのAとVに接続しダイアライザーに血液を流す。血液ポンプは使用しない。患者の血圧で機械へ流れていく。カンシをはずし血液が勢い良く回路を流れていくと頭がくらっとした。



この頃、もう透析の仕事は看護師に任されていた。技師もいたが今のように治療にかかわる臨床技師ではなく本当の機械や賭しての技師が一人いた。看護師は二人、外来看護師扱いで勤務は9時ー4時半。10時に透析を開始してまもなく昼食がでた。そこから終了まで8時間、長い時間だった。夕方4時半になると看護師二人は透析室のブラインドを下ろし帰ってしまう。透析に繋がれたままの患者4人が残される。

6時間を過ぎたあたりでちょうど不均衡症候群が出てくる時間帯。4人はお互いを監視しあった。いきなり足がつって大声で叫ぶもの。仰向けのまま食べたものを噴水のように吐き出すものもいた。その度、ナースコールで離れた病棟にいる看護師を呼び看護師は其れから医師を呼んだ。この時、一緒に透析をした4人はまさに一蓮托生。

ここ状態は翌年、1971年春、新人看護師が一挙に8人入ってくるまで続いた。その年から看護師がどんどん入ってきた。医師も増員され透析バブルがやってくる。

2010年8月18日水曜日

1970年4月6日透析開始。

腹膜透析を開始した病院は横須賀の繁華街の真ん中にあり、裏は絶壁、敷地も継ぎ足しで病棟が乱立し渡り廊下で繋がれていた。透析の担当医は内科医だが12歳だということもあり入院は小児科に入った。ここでは国立と違い病棟は小児科病棟で子供しかいなかった。入り口も単独になっていて面会も両親と親族に限られていた。僕はまた、二人部屋でひとり、大きな腹膜透析器を入れてあるためベッドもひとつしかなかった。3日間ほど意識が無かったと言われたが自分としては眠ったり起きたりしている感じだった。天井の様子で病院にいるという事も理解できていたし人の言葉も時々聞こえていた。何らかの治療を受けていることも分かっていた。


10月にはいると容態はすっかり安定した。親父と病院の間でどのような話合いがあったか、など知る由も無かった。僕は快方に向かっていてそのうち退院できるものと信じていた。毎日、腹膜透析は続け1週間ぐらい過ぎた頃、僕は尿意を催して看護婦さんを呼んでトイレへ連れて行ってもらった。ところが尿がでない。何度も呼んで行ってみるが一滴も出ない。僕は不安になり回診に来た医師に訴えた。「先生、おしっこが全然でなくなったよ。」僕は大変なことだと思って訴えたが医師はただ黙ってうなずくだけだった。




正月に一時帰宅したと思うが入院は続いた。ある日、内科の透析担当医がやってきて「のりちゃん、もっといい方法があるんだよ。このままじゃ退院できないしもっといい方法でやれば退院も出来るしきっと学校も行けるよ。」僕はその言葉が病気が治って学校へ行ける治療と信じ「やります。」と返事をした。1970年の3月くらいだったと思う。その治療をするために手術が必要といわれ始めて手術を経験した。手術室は病棟の一番上の階にありエレベータを降りると大きな扉があり、そこを通ると広い廊下が真ん中にあり両側に小さな扉の無い部屋が沢山あった。その中の一つに入り着替えをして狭いベッドに寝かされた。床はコンクリートで頭上には例のライト。壁には銭湯のようなタイルが張ってあった。この最初のシャント手術は簡単に終わったと思う。それから40年もこの部屋を行ったりきたりする羽目になるとは思ってもいなかった。



最初の透析は1970年4月6日。

小児科病棟から車椅子で向かった。立て替えたばかりのきれいな小児科病棟のある6病棟から1階へエレベーターで降りて売店の角を曲がると木造の学校のようなくらい渡り廊下が結構な傾斜で登っている。突き当りには窓に鉄格子がはまった分厚い鉄の扉。その手前を左にぽっかりとまた渡り廊下があった。内科病棟のある3病棟はこの先にある。その手前渡り廊下を半分ほど行ったところに渡り廊下にへばりつくような形で長い部屋がある。そこが透析室に供せられていた。いかにも急増された部屋と言う感じ。入り口を入ると体重計がある。力士やボクサーが測るような分銅を右にやったり左にやったりして50gまで測れる体重計。その体重計のある柱には一枚の漫画が貼り付けられていた。ワイシャツ姿の男が一人、ぐるぐる巻きにされて杭につながれている。そばには水道があって滴がたれている。男はのどが渇いているらしく口を開け舌を出して飲もうとしているが縛られていて届かない。そういう絵だった。この絵の意味は後で思い知らされることになる。
1:体重計 2:水槽のある大きな部屋。 3:監視装置 4:キール型ダイアライザー

この透析室の時代を鶏小屋時代。
ここを経験した患者さんやスタッフを鶏小屋世代と人は呼ぶ。

つづく。

2010年8月17日火曜日

1969年、透析導入(3)

こうして、市内唯一の人工腎臓治療を有する病院に搬送され、命をとりとめた。
このとき、僕は意識不明でもちろん、腹膜透析がどういうものか、何の説明設けていない。すべてが両親と病院側の交渉で行われた。ここからは、父親がずっと後になって語ってくれた事です。

病院に到着して当直医に診てもらうと、採血結果などが出る前にどういう状況かを把握したそうです。そして、人工腎臓担当の医師が呼ばれたそうです。呼ばれたと言ってもこの医師は一人でこの病院の人工腎臓治療を取り仕切っていて夜間も病院に泊り込んでいたそうです。彼、ひとりでオーバーナイト透析もやっていたそうです。まだ、若く野心的、髪はぼさぼさ、一見、野暮ったいように見えるがさつなおじさん。そんな印象の医師でした。
彼は呼ばれてきて僕を見るなりこう言ったそうです。
「この状態で家で寝かしていたぁ!?何でもっと早く、連れてこなかった!はっきり言って手遅れですよ。」
このときの僕の状態はまず、腎不全による尿毒症、高カリウム血症、栄養失調、脱水症状、どれも重篤な症状だったそうです。緊急的救命措置が施されたあと、両親は医師に呼ばれた。
「息子さんは残念ながら助かりません。ただひとつだけ助かる方法があります。人工腎臓による治療です。血液透析と腹膜透析がありますが当院ではまだ小児には導入したことがありません。しかし、これを導入すれば息子さんの命は一時的にでも回復することができる、と思います。いかがなさいますか?」
父は
「どうにかこの子の命だけでも助けてください。なんでもやってください。」

そこから僕の透析人生は始まったのだが親父は僕の治療が続く中、さらに病院側に呼ばれた。病院側の説明は
「この治療は大変に治療費が掛かります。健康保険は適用されますがお子様の治療の自己負担分だけでひと月に20万以上は掛かると思います。それも何ヶ月掛かるかわかりません。あなたは支払い能力がありますか?」
父は
「なんとしてでもお支払いいたしますので治療の継続をお願いします。」
病院
「失礼でございますが人工腎臓装置には限りがあり、たくさんの腎不全患者さんが順番を待っています。皆さん、一刻を争う状態です。当院としてはこの先、あなたのお子様に人工腎臓治療を導入しあなたに費用の御負担をお願いするわけですが将来にわたって御負担いただける保証はいただけますか?」
父は
「早急に上司と相談して御返事いたします。まずは治療の継続をお願いします。」

親父は当時、地方公務員。財産はなし。貯蓄もなし。しかし、身分は保証されている。親父は上司と相談して、直属の上司、健康保険組合長、人事課長、3人を連れてさらに病院と交渉を持った。
病院側は言う。
「腎不全の患者さんが誰でもこの治療を受けられるわけでは有りません。われわれはこのお子さんの保護者であるあなたが将来にわたってこの費用を支払い続けることが出来るか、確約が出来ない限りこの治療を継続することは出来ません。支払いは確約して頂けますか?」
人事課長が話し始める。
「私たちは雇用主としてこの方のお子さんを守る立場にあります。彼は公務員でありこの先も身分は保証されています。給料も安定的であり退職金も算定できます。どうか、彼の息子さんの治療を続けてあげてください。」
健康保険組合長も
「私の方も全面的にバックアップすることをお約束いたします。」
病院側はそれを聞きさらに続けた。
「それでは治療費はどのようにして調達して頂けますか?」
人事課長は
「話し合った結果、現在、彼の給料では治療費を払い続けられません。しかし、中間手当て、年末手当、退職金の前借、健康保険からの借り入れ、あらゆる制度を使って支払いできると思います。」
病院側は
「それではみなさんの連名で誓約書を頂けますか?」
何をもってしても支払う事をお約束いたします、という誓約書が4人の連名でしたためられ病院側に渡された。
この話し合いで僕の治療の継続が決まり僕は今も生きている。
もちろん、この後、患者会が立ち上げられ運動が始まり国会請願など政治的動きもあって人工腎臓による治療費の自己負担分は公費で支出されることになり、親父の負担が解消されたのだが、2年分の自己負担分を完済するまでに10年を要したそうです。

1969年、透析導入(2)

気づいたらまた、病院のベッドで天井の石膏ボードの穴の数を数えていた。あるっきり、意識が無い訳ではなく、医師がのしかかって「のりちゃーん!分かる?これからお腹に穴を空けるからハイ!っていったらお腹に思い切り力を入れてね。ハイ!」バスっという感じで腹に穴が開く感じがした。「まるきり意識が無いわけじゃないんだな。」俺は全部聞こえていた。

1965年の入院から4年後の1969年9月。
またまた、2学期が始まって最初の週。登校途中、僕はどうしても学校へ行きたくなかった。さしたる理由が無い。億劫。だるい。そんな感じ。でも、だるいから行きたくない。そういう理由では親に許可をもらえない。通学路途中のバス停で僕は考えあぐねていた。そこで思いついたのが、のどの奥まで指を突っ込んで「おえ~」として気持ち悪くしてつばを吐き、家に戻って「バス停で気持ちが悪くなって戻した。」と言って学校を休む。
この作戦は成功し僕は休みの許可をもらえた。しかし、予想通りではなかった。僕は其れきり起き上がれなくなってしまった。体に力が入らない。動くのがやっとの状態だった。ところが尿量だけはでる。トイレにおいてある尿量計測のための一升瓶を2回は空にした。其れも清酒のようにきれいな尿だった。2週間ほどそうやって寝ていただろうか。食べ物もほとんど食べていない。そのうちに異様な感覚が現れた。夜、居間から離れた6畳間に寝ていて居間の家族たちの様子をぼんやりと眺めているとストップモーションのように止まって見える。家の者が座ったり立ったりしたまま止まって見えるのだ。ふっと気が付くとまた動き出したりまた、止まって見えたり。ぼくはなんとなく面白くなりそんな家族の様子をぼんやりと眺めていた。
すると、止まっていた母がこちらに気づいた。顔が少しずつ近づいてくる。「のりちゃん!なにしてんの?黒目を戻しなさい!ふざけてやってるの!?」どうやら僕は白目をむいているようだった。母の声はしっかり聞こえていた。僕は意識して目の玉を正常に戻そうとした。「そうよ、それでいいのよ。そうしていなさい。」そういって、母はまたコマ送りのような感じで去っていって電話を掛けだした。主治医に異常を知らせているようだ。
するとこちらの様子を注視しながら電話をかけていた母が受話器を投げ出しこちらに駆け寄ってきた。
今度は無言で僕の頬をはたく。「目を!目を戻しなさい!」母が大声を出す。口に握りこぶしを突っ込んでくる。舌をつかむ。そうして割り箸に布を巻いたものを僕の口に突っ込んだ。その辺で意識が無くなった。
意識は戻ったりなくしたりを繰り返していた。国立病院の部屋と同じような天井の石膏ボードが見えた。頭の中で僕は入院したのかな、と言うのは感じていた。在宅療養中に読んだ本で知った尿毒症という文字が浮かんだ。僕は尿毒症を起こしたのかな。救急搬送でこの病院へ行き、1969年9月27日に腹膜透析で命を救われたのは幸運だった。
この時代、腎不全で尿毒症を起してなお救われる、と言う機会は皆無に等しかった。うちの親父がここで人工透析をやっている医者がいるのを知っていたとか、救急隊員が機転を効かしてこの病院へ連れて行ったわけでもない。しかし、偶然にこの病院へ行ったわけではない。母の手元にはこの病院への紹介状があった。それは、僕が寝込んでいたときに往診に来てくれた医師からのものだった。あて先は内科でも小児科でもなく、精神科への紹介状だった。僕が床についてから何回か往診してくれた医師には腎不全、尿毒症を見分けるすべもなかった。
医師は「これはね、お母さんにいつもそばにいてほしいと体が訴えているんだよ。全学連のストライキみたいなもんさ。精神科の紹介状を書いてあげるから近いうちに行くといい。」といって母に手渡してあったものだ。そして、救急車の隊員に「紹介状を持っているのでこの病院の精神科へお願いします。」と告げたそうだ。こうして僕は当時、助からないはずの数万分の一、数十万分の一の腹膜透析で助かったのだった。

つづく。

1969年、透析導入の話(1)

思いつくまま。いきなり書き出します。斜めに速読してください。僕は入院生活長いんで、病院や患者のこと。ぐだ愚だいきます。
初めて入院したのは1965年9月。2年の2学期が始まった最初の土曜日。
プール実習で風邪を引いた翌日の日曜日。朝、起きると顔がぷっくりと腫れていた。足にむくみが。
お隣の物知りの小林のおばさんがやってきて「こりゃ、腎臓が悪いに違いない。」と断定され、翌日、いまはなき、横須賀国立病院へ。採血と採尿がすんだ後、小児科の田口先生は言った。「急性小児腎炎ですね。2週間程度の入院加療で治りますよ。」それを聞いた母は言った。「先生、この子、おねしょ癖があるんですが入院しても大丈夫でしょうか?昨夜もしたんですよ。」。。。
こうして僕の入院生活が始まった。

ここは昭和40年、その年新築されたばかりの6階建ての病棟の2階。212号室。そこにそのまま11ヶ月入院した。その部屋には、ほとんどひとりで生活していた。僕のくら~イ性格はこの11ヶ月間に起因する。時々、入院してくる子がいたにはいたが数人ですべて女の子だった。後にも先にも女性と夜を共にしたのはこの時しかないな。別に僕がいたずらしたわけでも病院の方針でもないだろうが隣のベッドが埋まったのは最初の3ヶ月くらいで後はずっと一人だった。この部屋は細部にわたって思い出すことが出来る。何しろ一日中眺めていたから。
僕の部屋の隣は4人部屋でそこには普通に子どもが居たんだが、なぜに僕だけず~とあの部屋だったか今もって分らない。病棟の生活は退屈で部屋になどいなかった。まず、隣の4人部屋ここにはテレビが置いてあった。たぶん、病院の物ではなくて入院している誰かの親が業者から借りて窓際においてくれたものだろう。その頃、テレビはみんなで見るものという風潮があった。優先権はその子にもちろん有ったが、マア、大体多数決でチャンネルは決まった。まず、野球とプロレス、歌謡番組、これが最優先された。あと、どういうものがあったか覚えていないがひとつだけ、この年、この病室で見た、と言う記憶があるものがある。それは、【ウルトラマン】、ドラマそのものではなくて来週からやります、と言う予告番組。僕の記憶が確かならそれは記者会見場のようなところから始まった。結構、広いホールのようなところ、ぎっしりと観客で埋まっていて最前列には記者たち。舞台の上にはびしっと制服に身を包んだウルトラ警備隊の隊員たち。スポットライトを浴びて一人ひとりインタビューを受けてそれぞれに地球を守る任務の重さを語る。ウルトラマンのマの字も出なかった。それだけに次の週のウルトラマンの出現に子どもたちは衝撃を受けあれだけの大ブームになったのだろう。

ここでの治療というものはほとんどなし。薬を飲んだ記憶もない。朝晩の検温と安静時間と言うのがあった。その時間は部屋にいないと看護婦さんに怒られる。この時代の看護婦は怖かった。優しかったと言う記憶は一切無い。よっぽど俺が可愛くない子どもだったのかもしれないが。。。
この頃、両親がどういう思いだったか、母は亡くなってしまったし父はそういう話をしてくれないので分らないが、常に僕にいっていたことがある。それは看護婦さんを名前で呼んではいけない、看護婦さんと言いなさい、と言う事だった。なぜ、そういうことを言ったのか今では想像するだけだが、入院が長くなるともちろん、看護婦さんの名前も覚える。すると、どうしても好き嫌いが出てくる。好みの看護婦さんを選んで物を頼むようになる。それはいけない、選り好みをしないで何か頼むときは看護婦さん、お願いします、と言いなさい、と教えられた。
それで、僕は未だに看護師さんの名前を全然、覚えられない。おまけにこのときの習性で人の名前を覚えるのが苦手になってしまった。最近、それが富に激しい。

この小児科の思い出で忘れられないのが秋山るみちゃん。この子は小学校の同級生なんですがよく、お見舞いに来てくれた。たぶん、2年生の時だけで3年になってこなくなってしまったと思うんだけど週1回土曜に来てくれたような気がする。見舞いといっても小2。遊びに来るだけだがよく遊んだ。ついつい、安静時間も忘れて遊びまくり看護婦さんに叱られた。その時の看護婦のせりふ。「安静にするだけがなぜ出来ないの。それがあなたの仕事なの!」それ以来の看護婦嫌い。天敵ですな。

まあ、つづく。

2010年8月14日土曜日

血圧低下。

昨日の透析中、久しぶりに血圧が80をきってしまった。

昔は80をきると気分が悪くなり、猛烈に看護師にアピールした。

「気分が悪い~!冷や汗が出る~。」



しかし、昨日は気分はあまり変わらない。

そのかわり、少し胃が痛いような気がした 。

1時間後との血圧測定で看護師が顔色変えた。

「73だよ!気分悪くない?」

「う~ん、、、そんなに悪くないけど何か部屋が暗い気がする。」



看護師はあわてて僕のベッドを倒し、除水をきって、注射を入れた。

透析は長い間にいろんな経験をする。

肺に水がたまったり、貧血傾向が続いたり、Kがとんでもない値をたたき出したり、

その数字が日常化していく。

体も何処まで耐えられるか、いわゆる慣れが生じてくる。

痛みや苦しみに鈍感になる。

気がついたときには、意識を失うんじゃないかと思う。



「もっと、光を!」 ゲーテかな?

2010年8月8日日曜日


夢の中で俺は女子高生になっていた。見知らぬ外国の列車に乗っていた。どうやら通学の途中の様子。
風景はのどかな田園が続く。夢の中の俺はある駅を目指していた。もう少しだ。列車はその駅のホームに入って行った。降りなくちゃ!と思ったが、周りの外国人たちの流れに乗れず乗り遅れてしまった。
しょうがなく次の駅で降りる事にした。次の駅は降りるものもなくすんなり降りる事が出来た。一人でホームを歩いて反対側のホームへスタスタと歩いて行く。が、気持ちはエレベーターを探していた。掃除をしていた駅員に、エレベーターは何処?と聞くと、ずっと向こう。真っ直ぐいったとこ。そっけない。真っ直ぐ歩いて行くとエレベーターがあった。が、なぜかの乗らずに真っ直ぐに駅の外を歩いて行く。
ずーっとつづく一本道。辺りは外国の田園風景。
しばらく歩いて行くと、に本らしくなる。大きな家について玄関の門の前についた。そこで俺は気分が悪くなって倒れた。
誰か〜、と呼ぶと家から若い衆が飛び出て来た。あ!親分!
大変だ〜親分が!と言って人を呼びに行く。なんで俺が親分?女子高生なのに?あ!セーラー服と機関銃?(本当の俺が呟く)
奴が家へ飛び込むと同時に変な女が俺にのしかかって来て手のひらに注射をしようとする。もがいていると脇に止まったトラックから男が飛び出て来てその女を羽交い締めにして連れ去った。どうやらこの女が女親分ではなかろうか?

翌日か学校の仲間と道を歩いている。相変わらず女子高生姿をしている。女の連れが二人。一人は俺と同じような男言葉を使う元気な奴。もう一人は、いや〜ん、待って〜。みたいな聖子風。あと男子が2−3人。例の駅から何処かへ行く様子。みんなで列車に乗る。隣には聖子風が座った。胸が結構大きい。心の中で俺は今、女だよな?確認した。彼女の胸に頭をもたげしばし仮眠。女なのに何故か癒される。
しばらく生きと下車してまたぞろぞろと歩く。みんな手ぶらだ。学校へ行く様子ではない。気が付くとあの子がいない。おーい、なにやってんだよ。遅いぞ、もう。とか口々に叫んでいる。見るとあの子が後から走ってくる。手にはコンビニの袋が一杯。パシリやらされてんじゃん。と思ったが自分もお前トロいんだよ。とか言ってる。
俺もこいつらの仲間なんだな。
風景は田園から街になった。
どうやら課外活動みたいなものか、目の前に大きなサロンパスが止まっていた。みんなはそれに乗りこんで行く。
乗ろうとするがステップが高い。夢の中ではすたすたと歩いて行くがバスのステップが高くて乗れない。歩道の淵からも離れている。おーい、運転手ー!たけえんだよ。もっと歩道によせろよ!とか叫ぶが応答なし。一人の男子がひょいと乗せてくれた。ぞろぞろとバスに。。。

俺は運転手にもっと、歩道に寄せとけよな!と文句をいうと、うつむいていた運転手が顔をあげた。その運転手は禿げづらにはちまき、牛乳瓶のふたの様なメガネに腹巻をしたカトちゃん。カトちゃんは、まま、席に座って。これ、サービスだから。
と言って学生たちに焼酎のボトルを配っている。みんなに配り終えた後に一つ、点滴にストローをつけた様な奴が残った。
なんだよ。それは〜。と言うと、これはあっしがのみたくなった時イッシッシ。
ダメじゃん!それー!
とか言ってるうちにみんなは席についている。俺も席に着こうと振り返るとサロンパスの車内が見えた。通路が真っ直ぐ続いていて両脇に2座席づつシートがある。シートはリクライニング付きで席と席の感覚は広い。床は見えなくてシートが空中に浮かんでいる様だ。なぜか書く席の右足のところにだけフットレストがぴょこんと突き出ている。これはアクセルペダル?と考えながら席に片膝をついた格好のままバスは発車した。まだだよ〜カトちゃん。と叫んだが、バスはかまわず走り続ける。俺は体を入れ替えて座ろうとしたが、バスは激しく揺れる。スピード感もある。カトちゃん。まだ座っていないよー!と叫ぶが、カトちゃんはかまわずイッシッシ(*^◯^*)とますます調子乗ってハンドルを切る。
馬乗り状態のままバスは上下左右に激しく揺れながらスピードをあげる。ちょっと〜、、停めて〜!とか言いながらもスピード感や揺れが気持ち良くなずか楽しくてたまらなくなる。カトちゃんはますます例のドリフのノリで鼻歌を歌い出す。俺は思わずぷッと吹き出し笑ってしまった。その瞬間,点滴中である事を思い出し誰かに聞かれたかな?と思ったが夢に引き戻された。バスはますます勢いがつきバウンドも激しくなってスピードも上がってくる。しかしもはや俺は俺であって夢の住人ではない。怖くなって夢から出ようと思ったが目覚めない。これは点滴の副作用か,幻覚か?不安になった俺はナースボタンを押そうと手を伸ばすが届かない。
カトちゃんは絶好調でバスはスピードを上げてそのままカーブを曲がりきれずに隣家へ激突していった。
ふっと目覚めるとからになった点滴パックがぶら下がっていた。気を落ち着けてからナースコールを押してナースを呼んだ。

2010年8月5日木曜日

人工血管

ゴアテックス内径5mm長さ10cm
を上腕静脈につなぎました。
透析不足になっていたので、
術後3日連続で透析。抗生剤点滴。
食欲なし。退院は今週中の予定。

2010年8月1日日曜日

8月一日。


午前中曇り午後から晴れ時々曇り。

蒸し暑い。

蝉がやっと鳴きはじめる。

火曜日シャントの手術のため、明日から入院。

不安にさいなまれる一日。



TWITTERはサーバーメンテナンスのため休止状態。

たしか、サーバーを砂漠に移転するするような話、聞いたなあ。

当分、アウトかな。