2011年6月5日日曜日

長期透析表彰をうけて。

Awarded more than 40 years as a dialysis patient.

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長期透析表彰をうけて。

5月29日に名古屋で行われた全腎協40周年記念全国大会において、40年以上の長期透析患者として表彰をしていただけるということで、出かけていきました。新杉田から根岸線で桜木町、横浜線にて新横浜、新幹線で名古屋、名古屋から中央線で金山、名古屋市営地下鉄で日比野という長い旅になりましたが、神奈川県腎友会の青年部長さんとご一緒させていただき、大変楽しい旅でした。
当日は生憎の雨模様でしたが会場の名古屋国際会議場センチュリーホールが満員という大盛況でした。
全腎協会長からねぎらいのお言葉を賜り表彰状を受け取りました。ネットでの生中継もあり、インタビューを受けたりでちょっと緊張しましたがよい記念になりました。

今回、長期透析患者ということで表彰を受けましたので透析を開始した頃の思い出を少し書きたいと思います。
私が透析を始めたのは1969年、アポロ11号が月着陸した年でした。12歳でした。
8歳の時からネフローゼで入退院を繰り返していましたがその年の秋、体調が悪化、救急車で横須賀共済病院で腹膜透析を導入しました。子どもでありましたので詳しい病状の説明はなく、透析も一時的なもので、いずれ病気はよくなるものと思っていました。が、腹膜透析は毎日行わなければならず、病状もよくならず、入院も長引きました。そこで、まだその病院では小児には行っていなかった血液透析を導入する事になり1970年3月にシャントをつくり、4月6日、始めて血液透析を行いました。
その透析は今とはまったく違います。シャントは外シャントといってカテーテルが腕からむき出しになっているものを使いました。それを透析器の回路にコネクターで直結して繋ぎます。血液ポンプはなく、自己血圧で血液が透析器に流入していきます。まさに血の引く思いでした。
EPO製剤もまだ発明されておらず腎性の貧血はひどいものでした。ヘマトは10とか15しかなく、回路に 流れる血液は向こう側が透けて見えるほどでした。それでも大人の方たちは仕事に、小学校5年の私には学校へ行けといわれました。それはこの治療の目的が腎不全患者の社会復帰が目的だったからです。仕事に行く方たちはオーバーナイトで深夜透析をしたその足で職場へ行きました。何より怖かったのは休業により職を失う事だったからです。

1970年当時、健康保険の適用にはなっていましたが、家族には3割の負担 がありました。3割といっても当時の透析医療費は高く月20万~30万の負担がありました仕事を続け保険料を払い続け本人であることが生きる道でした。主婦や健康保険の本人でない人は、家族の重荷になることを懸念し透析を拒否したり、自殺をしたりしました。そんななか71年ごろになると全国各地で患者会が立ち上がり、この窮状を政府や国会に訴えようという動きが高まりました。横須賀でも71年4月に腎友会組織が出来、同年には全腎協も出来、国会請願も始まりました。その運動が始まり1年も経ずして、透析患者全員に身体障害者手帳が交付され更生医療の適用を勝ち取り、誰でも無償で透析が受けられるようになりました。
1969年に日本はGNP世界第2位になるという経済発展の最中という時代の利もありましたが、苦しい体調の中でも国会に足を運び自分と仲間の窮状を訴え続けた全腎協創世記の先達の努力によって誰でもが無償で透析医療を受けられる事を忘れてはいけないと思います。
あれから40年、全腎協の益々の御発展を祈念し筆をおきます。

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