2011年6月9日木曜日

透析を始めた頃。

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透析を始めた頃。

昭和40年、小2の2学期が始まって間もなくの事、プール実習がありました。
ちょっと雨模様で薄ら寒い日でしたが、水着に着替えタオルを引っ掛け整列して、
先生がプールの水温を計って実習を行うかどうかの報告を待っていました。
結局、実習は行なわれその日は楽しく泳いだのですが、
それが私の運命を狂わせたのだと思います。
翌日、日曜日だったと思いますが、母とお隣の叔母さんが顔を見合わせて何か話しています。
僕の脛を押してみたり顔を覗き込んで、おばさんが言いました。
「こりゃ、間違いなく腎臓だよ!明日、お医者に見せなさい!」

次の日、母に連れられて国立横須賀病院小児科を受診しました。
隣のおばさんの診断通り、腎臓病でした。医師は
「急性腎炎です。二週間ほど入院すれば完治できます。」
母は心配そうに言いました。
「この子は毎晩オネショするんですがご迷惑じゃないですか?」
医師と看護婦は笑って
「大丈夫、それも治しましょうね。」
その日入院して、以来オネショはピタリと治りましたが、腎臓は悪化。
いつしか病名はネフローゼ症候群となり入院は一年間に及びました。
自覚症状はあまりなく、安静療法が続きます。
学校の遅れを心配した両親は近くに内科小児科医院が開院した事もあって僕を退院させ、通院しながら自宅で療養する事になりました。
学校へも復学して通院と通学の日々が4年続きました。

昭和44年、5年生になった2学期の始め、登校途中、どうしても学校へ行きたくない、
という思いが湧き上がりました。たいして気分が悪いという事ではなかったのですが、
どうしても行きたくない。
このまま帰れば母に言い訳をしなければならないので、
喉に手を突っ込んで無理矢理、胃の中の物を吐き出しうちへ戻って、
「気分が悪くなって戻した。」
と言って布団を敷いてもらい、寝ました。

それきり2週間ほど寝込んでしまいました。食事も殆ど手を付けられなかったです。
かかりつけ医が往診をしてくれましたが、
「尿量も普通にあるし、血圧も異常がない。きっとこれは精神的なものだよ。全学連のストライキみたいなものだね。紹介状を書くから一度みてもらいなさい。」
といって横須賀共済病院の精神科宛に紹介状を書いてくれたのです。
その夜、容体が急変し、救急車で横須賀共済病院へ搬送されました。

三日間、意識不明がつづき、病名は不全による尿毒症。
栄養失調と脱水、高カリウム血症、担当した腎臓専門医は
「なぜ、ここまで悪化するまで病院につれてこなかったのか!」
と激怒したそうですが、街の医師には尿毒症の判断などできなかったんです。
でも、その医師が書いてくれた精神科への紹介状、そのおかげで救急車の隊員に横須賀共済病院へ連れて行ってくれるように頼め、
そこには全国でも数少なく神奈川県内では唯一の人工透析という治療法があったのです。そこで腹膜透析を昭和44年9月27日に行いました。
意識は朦朧としながらも腹膜に穴をあける瞬間は覚えています。
医師が体に馬乗りになり
「のりちゃーん、先生がはい、って言ったらお腹に力をいれてね。わかる?」
何かするんだな、と思い「はい。」というと、
「言ってる事は聞こえているんだな。。。」
それからお腹を触られたあと大きな声で「はい!力いれて!」と言われたのでお腹に力を入れると、バスっとお腹が破られる感じがして管が通された。
そのまま、また、気を失った。

それから毎日、腹膜透析を続け、僕は助かりました。
10月にはいると歩けるようにもなりました。
翌年昭和45年、入院をしながら腹膜透析を続けていましたが、
医師からもっといい方法がある、それをすれば学校へも通えるようになるから、
と言われ、3月に外シャントを作り、

昭和45年4月6日、始めて血液透析を行いました。
その頃の透析は現在のように針を刺す事はなく、
動脈と静脈に直接繋ぎ体外に露出させたカテーテルを透析回路にコネクターで接続し自分の血流で回路に血液を流入し循環させました。
ダイアライザーはキール型(積層型)といって一回ごとに膜を張り替え再使用するもので患者のみならず血液に直接触れる看護師などにも感染の危険性があるものでした。
透析液監視装置はミルトンロイというアメリカ製の個人機で一人用の制御しかできません。
それを先生が工夫してふたつのダイアライザーを直列でつなぎ、
複数の患者が使えるようにしました。もちろん同時に行う透析では個人の設定は出来ないので同じ様な体型、体重の人が組み合わされ、
片方の人が極端に体重を増加してきても対応出来ないため水分管理、体重管理を厳しく指導されました。
一回の食事ごとに薬を飲む水として50cc、一日150cc、体重増加は一日350gという厳しい制限です。そのため、栄養状態も悪く、貧血で苦しい時代が続きました。

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