12歳だった僕は小児科に入院した。透析に関しての指示や治療は小児科を通して伝えられる。当時、透析治療と言うのは同時病院内であっても理解度は少なかった。病院食にしてもとても透析食にはふさわしくないものが平然としてあった。たぶん、腎不全保存期、低蛋白で無塩に近いもの。カリウムは豊富に取らされた。バナナ、りんご、牛乳は毎日付いてきた。透析医と透析室の看護婦などはこの矛盾に気が付いていたようだが、栄養には口を出せなかったようだ。2年目くらいに透析室担当の栄養士が着て食事内容は激変し栄養指導なども盛んに行われるようになり、食事指導も厳しいものになっていった。
しかし、主治医はあくまで小児科医であって透析は併診扱いだった。これが僕らに災いした。小児の透析患者は僕しかいなくて小児科の栄養指導は遅れていて相変わらず腎不全食が出されていた。透析室にも小児科からおやつといってりんごなどを持ってくる。ほかの患者の前でりんごを食べる。不自然な状態が続いた。
そんなある日、事故が起きる。静脈側の縫合部が感染し抜けやすくなっていたらしく自宅で就寝中に外シャントが抜けるという事故が起きた。朝、気が付くとパジャマも布団も血まみれ!シャントを包んだ包帯からは未だに血が垂れている。僕はびっくりして母を呼んだ。これを見た母も動転した。小児科の担当医に電話をするか、透析医に電話するか、悩んだが、とにかく、救急車!ということで救急車で病院へ搬送してもらう。その間も血が流れ続ける。隊員も動転するが腕の付け根を圧迫するか一向に出血は止まらない。ようやく、病院に到着し待ち構えていた当直医が出血部分の包帯を解き確認すると、静脈側のカテーテルが抜けているだけ。カンシでパッチン!で血は止まった。しかし、ナンリットル血が出たかわからない。僕はまたまた気を失った。
この事件で小児科と、透析医との話し合いが行われ、このような事故の際、速やかに透析医側の指示を伝わるように当時、中学生ではあったが透析患者として内科担当医が主治医となった。
この外シャントの時代は長くは無かったが2-3年だった思うがすぐ詰まってしまって、毎月のように作り直した。手術の看護師が顔なじみになって「あら、また来たの?」なんていわれるようになった。それは、昭和51年のボーバイン・グラフトを入れるまで続いた。両手、両足、血管をことごとく潰していった。
外シャントOPの傷跡。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿