思いつくまま。いきなり書き出します。斜めに速読してください。僕は入院生活長いんで、病院や患者のこと。ぐだ愚だいきます。
初めて入院したのは1965年9月。2年の2学期が始まった最初の土曜日。
プール実習で風邪を引いた翌日の日曜日。朝、起きると顔がぷっくりと腫れていた。足にむくみが。
お隣の物知りの小林のおばさんがやってきて「こりゃ、腎臓が悪いに違いない。」と断定され、翌日、いまはなき、横須賀国立病院へ。採血と採尿がすんだ後、小児科の田口先生は言った。「急性小児腎炎ですね。2週間程度の入院加療で治りますよ。」それを聞いた母は言った。「先生、この子、おねしょ癖があるんですが入院しても大丈夫でしょうか?昨夜もしたんですよ。」。。。
こうして僕の入院生活が始まった。
ここは昭和40年、その年新築されたばかりの6階建ての病棟の2階。212号室。そこにそのまま11ヶ月入院した。その部屋には、ほとんどひとりで生活していた。僕のくら~イ性格はこの11ヶ月間に起因する。時々、入院してくる子がいたにはいたが数人ですべて女の子だった。後にも先にも女性と夜を共にしたのはこの時しかないな。別に僕がいたずらしたわけでも病院の方針でもないだろうが隣のベッドが埋まったのは最初の3ヶ月くらいで後はずっと一人だった。この部屋は細部にわたって思い出すことが出来る。何しろ一日中眺めていたから。
僕の部屋の隣は4人部屋でそこには普通に子どもが居たんだが、なぜに僕だけず~とあの部屋だったか今もって分らない。病棟の生活は退屈で部屋になどいなかった。まず、隣の4人部屋ここにはテレビが置いてあった。たぶん、病院の物ではなくて入院している誰かの親が業者から借りて窓際においてくれたものだろう。その頃、テレビはみんなで見るものという風潮があった。優先権はその子にもちろん有ったが、マア、大体多数決でチャンネルは決まった。まず、野球とプロレス、歌謡番組、これが最優先された。あと、どういうものがあったか覚えていないがひとつだけ、この年、この病室で見た、と言う記憶があるものがある。それは、【ウルトラマン】、ドラマそのものではなくて来週からやります、と言う予告番組。僕の記憶が確かならそれは記者会見場のようなところから始まった。結構、広いホールのようなところ、ぎっしりと観客で埋まっていて最前列には記者たち。舞台の上にはびしっと制服に身を包んだウルトラ警備隊の隊員たち。スポットライトを浴びて一人ひとりインタビューを受けてそれぞれに地球を守る任務の重さを語る。ウルトラマンのマの字も出なかった。それだけに次の週のウルトラマンの出現に子どもたちは衝撃を受けあれだけの大ブームになったのだろう。
ここでの治療というものはほとんどなし。薬を飲んだ記憶もない。朝晩の検温と安静時間と言うのがあった。その時間は部屋にいないと看護婦さんに怒られる。この時代の看護婦は怖かった。優しかったと言う記憶は一切無い。よっぽど俺が可愛くない子どもだったのかもしれないが。。。
この頃、両親がどういう思いだったか、母は亡くなってしまったし父はそういう話をしてくれないので分らないが、常に僕にいっていたことがある。それは看護婦さんを名前で呼んではいけない、看護婦さんと言いなさい、と言う事だった。なぜ、そういうことを言ったのか今では想像するだけだが、入院が長くなるともちろん、看護婦さんの名前も覚える。すると、どうしても好き嫌いが出てくる。好みの看護婦さんを選んで物を頼むようになる。それはいけない、選り好みをしないで何か頼むときは看護婦さん、お願いします、と言いなさい、と教えられた。
それで、僕は未だに看護師さんの名前を全然、覚えられない。おまけにこのときの習性で人の名前を覚えるのが苦手になってしまった。最近、それが富に激しい。
この小児科の思い出で忘れられないのが秋山るみちゃん。この子は小学校の同級生なんですがよく、お見舞いに来てくれた。たぶん、2年生の時だけで3年になってこなくなってしまったと思うんだけど週1回土曜に来てくれたような気がする。見舞いといっても小2。遊びに来るだけだがよく遊んだ。ついつい、安静時間も忘れて遊びまくり看護婦さんに叱られた。その時の看護婦のせりふ。「安静にするだけがなぜ出来ないの。それがあなたの仕事なの!」それ以来の看護婦嫌い。天敵ですな。
まあ、つづく。
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