初めての透析
透析室はベッドが4台。広さは8畳分か10畳分、ベッド4台でいっぱいいっぱいな感じ。ベッドを壁際に口の字の様に配置して真ん中にキール型ダイアライザーが2台置いてある。この2台のダイアライザーと1台の監視装置を4人の透析患者が共用する。監視装置(コンソール)は大きな木製キャビネットで数々のメーターがついている。静脈圧計、透析圧計、流量計。そこから供給される透析液は2系統。患者は4人。透析器は2台。1系統の透析液ラインに2台の透析器が繋がれた。そして1台の透析器には2人の患者の血液が送り込まれる。監視装置から出た透析液が最初に通る透析器を上流、次に通る透析器を下流といった。積層型の透析器の上の層を上層、下を下層と呼んだ。透析時間は朝10時から夜8時まで10時間。通ってくる方は県内各地に及んでいて1時間、2時間、かかってくる方もざらにいた。まさに残業つきの大仕事。中には家族が車椅子で送ってきて一度帰ってまた迎えに来るという方もいてまさに家族の協力がなければ透析は向け続けることが出来ない治療だった。
シャントは当時、全員が外シャントでうでの静脈と動脈にカニューレが挿入され真ん中でコネクターで接続されてシャントが出来ていた。透析するときはそこをはずしてダイアライザーのAとVに接続しダイアライザーに血液を流す。血液ポンプは使用しない。患者の血圧で機械へ流れていく。カンシをはずし血液が勢い良く回路を流れていくと頭がくらっとした。
この頃、もう透析の仕事は看護師に任されていた。技師もいたが今のように治療にかかわる臨床技師ではなく本当の機械や賭しての技師が一人いた。看護師は二人、外来看護師扱いで勤務は9時ー4時半。10時に透析を開始してまもなく昼食がでた。そこから終了まで8時間、長い時間だった。夕方4時半になると看護師二人は透析室のブラインドを下ろし帰ってしまう。透析に繋がれたままの患者4人が残される。
6時間を過ぎたあたりでちょうど不均衡症候群が出てくる時間帯。4人はお互いを監視しあった。いきなり足がつって大声で叫ぶもの。仰向けのまま食べたものを噴水のように吐き出すものもいた。その度、ナースコールで離れた病棟にいる看護師を呼び看護師は其れから医師を呼んだ。この時、一緒に透析をした4人はまさに一蓮托生。
ここ状態は翌年、1971年春、新人看護師が一挙に8人入ってくるまで続いた。その年から看護師がどんどん入ってきた。医師も増員され透析バブルがやってくる。
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