2010年8月18日水曜日

1970年4月6日透析開始。

腹膜透析を開始した病院は横須賀の繁華街の真ん中にあり、裏は絶壁、敷地も継ぎ足しで病棟が乱立し渡り廊下で繋がれていた。透析の担当医は内科医だが12歳だということもあり入院は小児科に入った。ここでは国立と違い病棟は小児科病棟で子供しかいなかった。入り口も単独になっていて面会も両親と親族に限られていた。僕はまた、二人部屋でひとり、大きな腹膜透析器を入れてあるためベッドもひとつしかなかった。3日間ほど意識が無かったと言われたが自分としては眠ったり起きたりしている感じだった。天井の様子で病院にいるという事も理解できていたし人の言葉も時々聞こえていた。何らかの治療を受けていることも分かっていた。


10月にはいると容態はすっかり安定した。親父と病院の間でどのような話合いがあったか、など知る由も無かった。僕は快方に向かっていてそのうち退院できるものと信じていた。毎日、腹膜透析は続け1週間ぐらい過ぎた頃、僕は尿意を催して看護婦さんを呼んでトイレへ連れて行ってもらった。ところが尿がでない。何度も呼んで行ってみるが一滴も出ない。僕は不安になり回診に来た医師に訴えた。「先生、おしっこが全然でなくなったよ。」僕は大変なことだと思って訴えたが医師はただ黙ってうなずくだけだった。




正月に一時帰宅したと思うが入院は続いた。ある日、内科の透析担当医がやってきて「のりちゃん、もっといい方法があるんだよ。このままじゃ退院できないしもっといい方法でやれば退院も出来るしきっと学校も行けるよ。」僕はその言葉が病気が治って学校へ行ける治療と信じ「やります。」と返事をした。1970年の3月くらいだったと思う。その治療をするために手術が必要といわれ始めて手術を経験した。手術室は病棟の一番上の階にありエレベータを降りると大きな扉があり、そこを通ると広い廊下が真ん中にあり両側に小さな扉の無い部屋が沢山あった。その中の一つに入り着替えをして狭いベッドに寝かされた。床はコンクリートで頭上には例のライト。壁には銭湯のようなタイルが張ってあった。この最初のシャント手術は簡単に終わったと思う。それから40年もこの部屋を行ったりきたりする羽目になるとは思ってもいなかった。



最初の透析は1970年4月6日。

小児科病棟から車椅子で向かった。立て替えたばかりのきれいな小児科病棟のある6病棟から1階へエレベーターで降りて売店の角を曲がると木造の学校のようなくらい渡り廊下が結構な傾斜で登っている。突き当りには窓に鉄格子がはまった分厚い鉄の扉。その手前を左にぽっかりとまた渡り廊下があった。内科病棟のある3病棟はこの先にある。その手前渡り廊下を半分ほど行ったところに渡り廊下にへばりつくような形で長い部屋がある。そこが透析室に供せられていた。いかにも急増された部屋と言う感じ。入り口を入ると体重計がある。力士やボクサーが測るような分銅を右にやったり左にやったりして50gまで測れる体重計。その体重計のある柱には一枚の漫画が貼り付けられていた。ワイシャツ姿の男が一人、ぐるぐる巻きにされて杭につながれている。そばには水道があって滴がたれている。男はのどが渇いているらしく口を開け舌を出して飲もうとしているが縛られていて届かない。そういう絵だった。この絵の意味は後で思い知らされることになる。
1:体重計 2:水槽のある大きな部屋。 3:監視装置 4:キール型ダイアライザー

この透析室の時代を鶏小屋時代。
ここを経験した患者さんやスタッフを鶏小屋世代と人は呼ぶ。

つづく。

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