2010年7月18日日曜日
昭和51年の移植事情。
昭和50年頃は移植に対する偏見とかはなかったと思います。
生体腎移植にしても献体腎移植にしてもたいした論議もされていなかったし
臓器移植に関する法律が定められるのはこれから20年も先の話です。
大学病院は立派できれいな未来的な建物だった。
病棟は真ん中のエレベーターホール三棟が放射状に延びていて10階まであった。
それぞれA棟B棟C棟と呼ばれ僕が入院したのは9階のC棟、9Cの何号室という具合だ。
部屋は大きくて8人部屋。詰め込まれている感じはなくて悠々とした広さがあった。
ベッドはそれぞれぐるりとカーテンで覆われるようになっていて夜は安眠できた。
同室の方は糖尿病や腎臓病、心臓病など循環器系の患者さんたちであったと思う。
この病棟には腎移植の患者さんたちが頻繁に入院しているらしく移植の検査入院で来ました。
といっても、何の興味も示さなかった。へ~。そうなの。と軽くあしらわれた。
親父は毎週1回くらいの割合で来てくれた。
電車を乗り継ぎ片道2時間半くらいかかる辺鄙なところだった。
8歳で腎臓病になって何度も入退院を繰り返していたが親父が見舞いに来てくれるのは滅多になかった。
仕事人間で忙しくあまり話をしたこともなかった。
それまでの入院では前年に亡くなった母がほぼ毎日のように来てくれていた。
この1週間に1回という親父の見舞いで親父が案外話しやすくて冗談も言う人なんだと知った。
昼過ぎに来てまず「どうだ?なんか変わりないか?」と一言。「ウン、変わりないよ。」
で、意外に優しいこの親父に僕は甘えだした。
「何にかほしいものないか?」この言葉を必ず帰り際に言うので
「崎陽軒のシュウマイが食べたい。」
果たして次の來院日に20個入りの大きいほうを買ってきた。
他の患者さんはみんな、循環器系で食事制限中、もちろん僕も???
仲のいい患者数人と打ち合わせて消灯後にこっそり食べようと決定した。
消灯後の見回りの時間がわかっている。
消灯の見回りの看護師がやってきて電気を消して去っていく。その足音が消え去るのを見計らって・・・
「それっ!」と集まってシュウマイのむさぼりつく。
4人で5個ずつ、結構な量です。普段食欲がない、なんて言っていたものの
あっというまに食い尽くした。
何知らぬ顔で満足してベッドに入ってしばらくすると看護師がやってきた。
みんな、寝たふりを決め込んでいたが「なに?このにおい!!!くさい!誰か何か食べた?」
食った本人たちは気がつかなかったが部屋中、シュウマイのにおいが充満していたそうだ。
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