セミナイトは中学に入学したのを機会に大人に混じって入れてもらった。
そして、高校、専門学校、仕事を始めて、途中オーバーナイト5年やって以外は準夜だった。
最初はコイル型透析器、洗濯機に回路をぶち込む感じ。回路に血流が流れ出すと鼻がツーんとして、目が充血した。
中3の5月の修学旅行、2泊3日の京都・奈良。母が随伴することで許可された。暑い5月だった。その夜、シャントが腫れて高熱が出た。
何とか最終日まで耐えたが学校へ帰着すると同時に待ち構えていた救急車に乗り換えた。
シャントは感染していて人工血管は取り除かなければならなかった。
入院は長引き、先生の決断はまた、腹膜に戻ろう、と言う事だった。僕は抵抗した。医師にでなく母に。。。
「もし、腹膜透析に戻るくらいなら、僕は退院と同時に観音崎の灯台から身を投げて死ぬ。」
母は静かに「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。。。今は頑張ろうよ。」
2学期からは腹膜透析になった。学校が終わってすぐ、病院へ行って透析を開始しても腹膜透析は長く夜の11時くらいにならないと終わらない。しかも毎晩。母は歩いて迎えに来てタクシーで帰った。11月の後半、木枯らしが冷たく吹く頃、透析の帰り、母が僕にポツリと言った。
「のりちゃんがちゃんと腹膜受けてくれてよかった~。ホントに飛び込むかと心配しちゃったわ。」
1974年12月13日(金)この夜も母は迎えに来た。その夜は妹も連れてきた。横須賀中央駅まで歩いていく途中におでんの屋台があり妹が「ウインナー食べたい。」と、ねだった。
いつもなら母は「やめなさい。」とたしなめるのだがその夜は「のりちゃんも好きなもの食べていいよ。」 妹はウインナー、僕ははんぺんを食べた。見上げると皆既月食から回復しつつある半分赤黒いような月が出ていた。母が僕の病院に迎えに来たのはこの世が最後になった。
翌日の土曜から母は友達と箱根旅行へ行き、12月15日、日曜の昼、小田原の喫茶店で脳内出血でなくなった。享年42歳だった。
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