2010年8月30日月曜日

2010年8月25日水曜日

病歴

現在のクリニックへ通院するようになってからの主な既往症歴を
書き出してもらいました。

’65 9/6小児腎炎から慢性糸球体腎炎発症 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34545334.html


’69 9/27尿毒症により腹膜透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34549186.html

’70 4/6血液透析開始 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/34559005.html

横須賀にて通院。
1969年9月~1999年11月



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現クリニック’99 11月23日初診~



’762腎移植(父ドナー、OP当日尿量0 http://blogs.yahoo.co.jp/kcbxy890/28866912.html

’80 尋常性乾癬

’94 7左大腿骨骨とう壊死

7/27人工骨とう置換術

’95 2意識消失発作(脳波、CT;np)

’99 3僧帽弁閉鎖不全

’99 6蜂窩織炎

’01 1/30左変形性膝関節症 全置換術

    9/18右〃  〃     〃

’02 9消化管出血

’04 6敗血症ショック

’04 8右大腿動脈穿刺部感染性動脈瘤破裂

     8/20右大腿動脈瘤切除

       動脈端々吻合再建術

’0410左手関節内シャント造設

 々  10/22尋常性乾癬症悪化UVB照射

’06 1左大腿骨骨頭部(人工骨頭部)

      1/27他 計3箇所の骨折ope

       入院中仙骨部褥創形成

’06 6左手関節内シャント造設

’0610左上腕グラフト造設

’10 3左上腕グラフト(PTA 血栓除去)

 〃  8 〃  〃  延長

介護担当者会議。

要介護認定を受けると介護度に応じた介護サービスを受けることができます。




通院送迎タクシー、身体介護、家事援助、訪問リハビリー、訪問看護、介護用品のレンタル、



など、さまざまなサービスがあります。



利用者の障害に応じてケアマネージャーが介護利用計画をたて点数を算定します。



サービスが多岐にわたるとそれぞれの担当者を集めて現在の状況やこれからの介護方針などを



提案、連絡するため担当者会議なるものを開きます。



もちろん、ケアマネさんが司会です。



「のりさんの現在の状況はいかがですか?皆さん、ご意見は有りますか?」



から始まって、さまざまな意見が飛び交います。



訪問看護師

「入院する前から比べると足の運びが重くなったような気がします。貧血のせいもあるでしょうけど」



から、議論が白熱してきます。



その間、僕は借りてきた猫状態。



「どうですか?のりさん。」   「はあ・・・・」



送迎タクシーさん。

「今日は玄関の段差を下りるのもつらそうでした。病院の中もついてあげたいのですが、






許可されていません。何か方法はありませんか?」



家事ヘルパーさん。

「貧血だと言うのでコンビニ弁当ではなくて何か栄養のあるものを作ってあげたいんですが?」



「どうなんですか?」     「はあ・・・・・・」



ますます議論は盛り上がってきます。



ケアマネさん。

「のりさんの目標は、お一人で外出したいと言う事ですよね。訪問リハさん如何ですか?」



訪問リハさん。

「階段は下りるのは結構出来ますが登るのはまだまだ掛かると思います。」



電動車いすを使う、ベランダを改造して昇降機を取り付ける、とか、



ベッドを電動にしたらどうか、とか、益々議論は伯仲し、電動車いすの昇降に向けて、



行動を開始することに。



ケアマネさん。

「のりさんの最終目標はハワイ旅行ですよね?時期はいつですか?」



・・・・え?え~~?今週のオフ会も中止したのにハワイですか?・・・・・・



「い、いや~~、来春くらいかな?・・・」



ケアマネさん。

「来春のハワイに向けて頑張るそうです。」

看護師「・・・・・・・」ヘルパーさん「・・・・・・」タクシーさん「・・・・・・・」



「い、いや~~~、国内からでいいよ。宍道湖の夕陽とか。」



ケアマネさん。

「夕陽?秋ですね。11月?ハワイは春ですね。宍道湖11月、ハワイは来春だそうです。」



・・・・・・・・おい、おい、ホントかよ~~~。・・・・・・・・



ケアマネさん。

「それではベランダの改修を大家さんと交渉して頂いて国内が11月、ハワイが春でよろしくお願いします。」



ケアマネージャーさん、どうやら、マジらしいです。

2010年8月23日月曜日

22日の出来事。

本当に恥ずかしい事なんですが、昨日、救急車を呼んでしまいました。
自分では本当に苦しかったんですよ。
でもこんな事で救急車、呼んでもいいのかな?と逡巡しました。

透析があると、なかなか下剤って飲みにくいんですよね。次の日透析が有ると飲むのは控えるし、毎日決まった時間に出ればよいのだけど食が細いので2-3日に1回、出ればよいほうでおのずと硬くなります。それで、4-5日ほどでていなかったんです。土曜日に明日は日曜だから下剤を飲んででも出しとかなきゃ!と思って下剤を飲んで寝ました。

普通なら、朝には快便が~!ところが今日に限ってでない?
昼を過ぎて下剤特有のおなかの痛みがやってきたがでない?
それどころか、ものはもう下まで下がりきって今にも出そうなところにあるんだが出ない。。。。
腹は痛い、出口も痛い、脂汗は出る、力むとくらくらする。なんせHb7.5!Ht23!!!
ふらふらしながら、何度かトイレを行き来していたが、とうとう限界に。

おしりにペーパーをつめてやっとこベッドに戻り横になる。息ははあはあ、油汗は出てくる。
明日は透析だからそれまで我慢すれば、何か対処してくれるだろう。。。。
と思っていたが、我慢できなくなってしまった。こんなことで・・・思ったのだが救急車に連絡をした。
3分ほどで到着した。退院4人。てきぱきと隊長らしき人が指示を与える。
保険証は?おうちの鍵は?お財布は持ちますか?携帯ももっていますか?ご家族に連絡は?
1分も掛からず準備完了!ハンモック状の物に載せられ救急車へ。1件目、病院搬入要請、重傷者処置中のためNG!2件目、3件目NG!4件目もNG!5件目、戸塚の病院が受け入れ。
出発する事になった。バイタルもすべて異常なし。腹痛のみ、原因も分っている。俺は恥ずかしかったが隊員は優しかった。「妹さんに連絡取れましたからね。もうすぐ着きますよ。」

戸塚共立第一病院に搬入された。症状も原因も既往歴もすべて隊員が医師に報告してくれた。
医師も穏やかに対応してくれて、看護師もとても丁寧だった。俺はもしかしたら皮肉の一言も言われるんじゃないかと思ってて言われても詫びよう、位に思っていたのだがホントに優しい対応だった。レントゲンで確認して浣腸をかけて俺は昇天した。看護師が医師に「たくさん出ましたよ。」医師は静かに「よかったですね。」本当にお手を煩わせて申し訳ない。

会計を済ませて妹を待つ。仕事を切り上げて妹がやってくる。
事務室に「妹が来ましたんで、帰ります。ありがとうございました。」と、声をかけると、事務室にいた全員が玄関まで出てきてくれて送ってくれた。まるで長年入院していた患者の退院みたいに。
本当にアットホームな対応だった。この病院一度入院してみたくなったほどだった。
上大岡救急の隊員の方も本当にありがとうございました。

2010年8月19日木曜日

外シャント。

小児科と内科。


12歳だった僕は小児科に入院した。透析に関しての指示や治療は小児科を通して伝えられる。当時、透析治療と言うのは同時病院内であっても理解度は少なかった。病院食にしてもとても透析食にはふさわしくないものが平然としてあった。たぶん、腎不全保存期、低蛋白で無塩に近いもの。カリウムは豊富に取らされた。バナナ、りんご、牛乳は毎日付いてきた。透析医と透析室の看護婦などはこの矛盾に気が付いていたようだが、栄養には口を出せなかったようだ。2年目くらいに透析室担当の栄養士が着て食事内容は激変し栄養指導なども盛んに行われるようになり、食事指導も厳しいものになっていった。



しかし、主治医はあくまで小児科医であって透析は併診扱いだった。これが僕らに災いした。小児の透析患者は僕しかいなくて小児科の栄養指導は遅れていて相変わらず腎不全食が出されていた。透析室にも小児科からおやつといってりんごなどを持ってくる。ほかの患者の前でりんごを食べる。不自然な状態が続いた。



そんなある日、事故が起きる。静脈側の縫合部が感染し抜けやすくなっていたらしく自宅で就寝中に外シャントが抜けるという事故が起きた。朝、気が付くとパジャマも布団も血まみれ!シャントを包んだ包帯からは未だに血が垂れている。僕はびっくりして母を呼んだ。これを見た母も動転した。小児科の担当医に電話をするか、透析医に電話するか、悩んだが、とにかく、救急車!ということで救急車で病院へ搬送してもらう。その間も血が流れ続ける。隊員も動転するが腕の付け根を圧迫するか一向に出血は止まらない。ようやく、病院に到着し待ち構えていた当直医が出血部分の包帯を解き確認すると、静脈側のカテーテルが抜けているだけ。カンシでパッチン!で血は止まった。しかし、ナンリットル血が出たかわからない。僕はまたまた気を失った。



この事件で小児科と、透析医との話し合いが行われ、このような事故の際、速やかに透析医側の指示を伝わるように当時、中学生ではあったが透析患者として内科担当医が主治医となった。



この外シャントの時代は長くは無かったが2-3年だった思うがすぐ詰まってしまって、毎月のように作り直した。手術の看護師が顔なじみになって「あら、また来たの?」なんていわれるようになった。それは、昭和51年のボーバイン・グラフトを入れるまで続いた。両手、両足、血管をことごとく潰していった。
外シャントOPの傷跡。

つづく。

1970年4月6日(2)

初めての透析

透析室はベッドが4台。広さは8畳分か10畳分、ベッド4台でいっぱいいっぱいな感じ。ベッドを壁際に口の字の様に配置して真ん中にキール型ダイアライザーが2台置いてある。この2台のダイアライザーと1台の監視装置を4人の透析患者が共用する。監視装置(コンソール)は大きな木製キャビネットで数々のメーターがついている。静脈圧計、透析圧計、流量計。そこから供給される透析液は2系統。患者は4人。透析器は2台。1系統の透析液ラインに2台の透析器が繋がれた。そして1台の透析器には2人の患者の血液が送り込まれる。監視装置から出た透析液が最初に通る透析器を上流、次に通る透析器を下流といった。積層型の透析器の上の層を上層、下を下層と呼んだ。透析時間は朝10時から夜8時まで10時間。通ってくる方は県内各地に及んでいて1時間、2時間、かかってくる方もざらにいた。まさに残業つきの大仕事。中には家族が車椅子で送ってきて一度帰ってまた迎えに来るという方もいてまさに家族の協力がなければ透析は向け続けることが出来ない治療だった。






シャントは当時、全員が外シャントでうでの静脈と動脈にカニューレが挿入され真ん中でコネクターで接続されてシャントが出来ていた。透析するときはそこをはずしてダイアライザーのAとVに接続しダイアライザーに血液を流す。血液ポンプは使用しない。患者の血圧で機械へ流れていく。カンシをはずし血液が勢い良く回路を流れていくと頭がくらっとした。



この頃、もう透析の仕事は看護師に任されていた。技師もいたが今のように治療にかかわる臨床技師ではなく本当の機械や賭しての技師が一人いた。看護師は二人、外来看護師扱いで勤務は9時ー4時半。10時に透析を開始してまもなく昼食がでた。そこから終了まで8時間、長い時間だった。夕方4時半になると看護師二人は透析室のブラインドを下ろし帰ってしまう。透析に繋がれたままの患者4人が残される。

6時間を過ぎたあたりでちょうど不均衡症候群が出てくる時間帯。4人はお互いを監視しあった。いきなり足がつって大声で叫ぶもの。仰向けのまま食べたものを噴水のように吐き出すものもいた。その度、ナースコールで離れた病棟にいる看護師を呼び看護師は其れから医師を呼んだ。この時、一緒に透析をした4人はまさに一蓮托生。

ここ状態は翌年、1971年春、新人看護師が一挙に8人入ってくるまで続いた。その年から看護師がどんどん入ってきた。医師も増員され透析バブルがやってくる。